« 大和朝廷の公用語は主として百済語 | トップページ | 色や形が異なっても中身は同じ日韓語 »

2011年12月31日 (土)

『万葉集』 『記紀』 と 朝鮮語

万葉集』『記紀ができるころ、日本文化は桜花のごとく開花し、7世紀前後~8世紀前後頃のおよそ百年あまりの周辺に、とつぜん信じがたいほどの文化遺産を生みだしている。まさに新文化の集中攻撃にあったとでもいうべき日本歴史の突然異変である。当時の主な文化遺産をいくつかあげれば次のごとくである。「万葉集」「古事記」「日本書紀」「飛鳥寺」「法隆寺」「法隆寺釈迦三尊像」「薬師寺」「東大寺」「奈良の大仏」「唐招提寺」「懐風藻」・・・。世界史をひもとくとき、その国の政治・文化を新しくつくる人々は、その国の征服者・侵攻者・先進国からの渡来人であることがわかる。より高度な文化をもった民族の移動が、一気呵成に後進国の文化を高める文化異変は多くの国に認められる歴史的現象である。柳宗悦(濱田庄司や河井寛次郎らとの交流をはかりながら民芸の普及につとめ日本民芸館を創設)は、「飛鳥~奈良時代につくられた国宝、寺院、仏像、書画などは韓国の国宝とも言える」と語っている。

文字化された文学作品が皆目なかった日本に、とつぜん現れた『万葉集』『記紀』を介して、百花繚乱たる豊潤な言葉とその芸術性の高さから、当時の文化遺産が日本古来の原住民の子孫たちの業によるものではないことを知る。常識的に言って、『万葉集』『記紀』の業は、何世代にもわたり、ハイレベルの言葉(口語)や文字(漢字)に血肉のごとく精通していた人々の子孫でなければなしえない業である。松本清張は「記紀・万葉・その他の古代文献は 新羅 百済高句麗 の言葉による」と述べている。

                              

万葉集の言葉

湯沸かす いたづらに  けだし いかさま つれもなく  もろびと  ささげる たなびく しなえる 慰める 夜ふけて しかれども  霞たなびく 心かなし いつしか  人目  いずこ 鳴く鴨を  わたつみ  おしなべて もの思い・・・

記紀の言葉

 いにしえ 底深い とどこおる  さだまる  ただよう たとえば  つぎに  まいる さぐる  先より めぐる  したたる ゆゆしき となえる よろこび すでに あらためて またあう 形どる もとより あえて かくのごとく・・・    

『万葉集』『記紀』の言葉をみてもっとも驚くことは、使われている言葉のほとんどが現在の標準語にふくまれていることである。「雁鳴きわたる」「寒き夕べ」「野守は見ずや」「いさよう波の」「まず咲く宿の梅の花」など膨大な数の言葉が現在の標準語と同じである。これらの言葉をみて不思議に思うことは、これほど豊潤で含蓄のある膨大な言葉を、日本の原住民(縄文人)が使っていただろうかということである。

日本語の語源はタミール語である」という説を大野晋が述べたために、日本中がびっくりしたこともあるが、日本語の語源としてあげられているアイヌ語、南洋の島々の言葉、モンゴル語、タミール語、東南アジア、北方諸国の言葉、日本古来の原住民の言葉などがどれだけ縄文時代に堆積していただろうか。わずか7.5万ぐらいの人口を日本列島に散在させれば、各地域の人口はスズメの涙ぐらいになるだろう。しかも、当時の社会環境から推測すれば、各地域の言葉は方言でしかなく、共通語があったかどうか疑問である。

仮にそれらが日本語の語源であるとしても、いろいろな矛盾が想定される。悠久の昔から堆積した日本古来の言葉が現標準語のルーツであるとするのには、縄文時代という不毛の時代を経過しなければならない。毛皮を着て穴居生活をし、狩猟生活に依存していた縄文人が、「まほろば」「衣の裾に取りつく」「我が恋おれば」「またかへり見む」「その旅人あわれ」などの言葉を知っていただろうか。このことは、縄文人にかぎらず弥生人についても言える。弥生人の90%以上が渡来人であったにしても、漢字を駆使できる人はいなかったのだから、『万葉集』や『記紀』を書ける人はいなかったことになる。

万葉文化と「縄文・弥生文化の大きな格差は、言葉においても同じであったことを語っている。「縄文式土器」や「弥生式土器」と正倉院御物の「漆胡瓶」を比較すれば、当時の言葉の落差がいかに大きなものであったかを推測できる。豊富な言葉と漢字に精通し、大和朝廷にかかわっていた人々でなければ、『万葉集』や『記紀』を書くことができるはずがない。『万葉集(7世紀~8世紀)』『古事記(712)』『日本書紀(720)』が書かれる以前、漢字表記による文学的な作品がひとつもないのに、突如として生まれたこれらの文献は、執筆するに値する才覚者が7世紀~8世紀を中心とする百年余りの周辺にとつぜん出現したことを意味する。画家の平山郁夫と日韓文化交流会議の代表をつとめた金容雲は、「奈良時代における百済人の渡来がなければ『万葉集』は生まれなかったであろう。『万葉の歌聖』額田王 山上憶良 柿本人麻呂 山部赤人 は朝鮮人である。」と語っている。また、権叉根・国弘三恵などは万葉仮名は朝鮮の吏読表記と同じであると述べている。           

« 大和朝廷の公用語は主として百済語 | トップページ | 色や形が異なっても中身は同じ日韓語 »

コメント

この記事へのコメントは終了しました。

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 『万葉集』 『記紀』 と 朝鮮語:

« 大和朝廷の公用語は主として百済語 | トップページ | 色や形が異なっても中身は同じ日韓語 »