日本語と韓国語の違いは方言の差である (1)
方言は、簡単に言えば、語彙(単語)の多くが異なっていても、言葉の素質(本性)・語法(言語構成)などがそっくりであるものを言います。例えば、「鹿児島弁」と「沖縄弁」の違いを見れば、方言がどのようなものであるかがわかります。同じことが日韓語についても言えます。日韓語は同一地域外の言葉同士ですけれども、近隣国であるが故に、相互に方言性をおびています。わかりやすく言えば、「鹿児島弁」と「沖縄弁」の違いに類似しています。
朝鮮語が4000年前(諸説あり)に分岐して倭国へ伝播したために、現在の日韓語は異なっていると述べている言語学者がいるけれども、そんな時代に朝鮮半島全土の共通語があったはずはありません。朝鮮語が分岐したと考えるのは、現在の言語環境から錯覚しているのです。当時の社会環境から推測すれば、当時の人々は各地域の方言に依存して生活しており、朝鮮語が分岐したなどというレベルの言語層が、朝鮮全土に行き渡っていたはずはありません。
奈良時代でさえ、日本列島全域で共通語が広く使われていたと考えるのは不自然でしょう。江戸時代、日本人でありながらも、東北弁と熊本弁が相互に通じないのは、方言という言葉の影響によるのです。限られた文献の言葉が、共通語として広まっていたとも想像されますが、もしそうであるならば、江戸時代には全土の往来が盛んになってきたためでしょう。まして、交通が不便で、まとまった文献もなかった縄文~古墳時代ごろ、全国の共通語は知れたものであったと考えるのが自然でしょう。大和朝廷の言葉が現在の標準語になっていますけれども、その言葉は朝廷内という区域の方言だったのです。
弥生~奈良時代に、朝鮮からの渡来人が急増し、倭国の人口(弥生時代約60万人)が増えたわけですが、渡来人は各地域の方言をもたらしました。従って、縄文時代の倭人(縄文晩期約7.5万人)の方言は、朝鮮半島の方言によって席捲されたことになります。しかし、当時の社会環境、交通の便などから推測すると、渡来人の増加によって言葉が増えたとしても、それらの言葉が倭国の共通語として広く使われていたわけではありません。
現在の標準語は、学校教育、新聞、ラジオなどが普及しはじめた明治時代ごろから全国に定着しはじめています。このことは、韓国の場合も同じでしょうから、日本の現標準語と韓国の現標準語の似ている単語を探してみても、所詮、方言であった言葉から類似語を探すことになります。従って、現日本語の中から現韓国語との類似語をピックアップするのは容易ではないのです。
「日本方言辞典(小学館)」によれば、「メダカ」を表す方言は2000種ぐらいあるという。このことは、ハングルの「송사리<sonsali> メダカ」についても言えるでしょう。このことは、方言で詮索すれば、同意語がいかに多いかを示しています。「犬(いぬ)」と「개<ke> いぬ」が全然違うように、日韓語の同意語のほとんどは異なる音からなるでしょう。「犬(いぬ)」「개<ke>」は、本来、方言であったわけですから、似ていないのは当然です。また、方言は消滅しやすいので、長い時間的経過の中で廃語になっていることも多いから、現在の標準語同士(本来方言であったもの)を比べて類似語を探すのは困難であります。
「頭(あたま)」「猫(ねこ)」はどこの地域の方言であったでしょうか。「うつむり」の「うつむ」が「あたま」に似ているとしても、「あたま」が先か、「うつむ」が先かなどの問題もあり、所詮、言葉探しは一筋縄ではいきません。まして、韓国語の「머리<moli> 頭」との関係を韓国の方言から探すのはもっと難しいでしょう。「머리<moli>」が「うつむり」の「むり」に似ているとしても偶然かもしれません。従って、単語が似ているものを探すよりも、言葉の性格・語法の共通性を比較する方が、より正確な言葉の類似性を判断することができます。
「頭(あたま)」の方言
あか あぼちゃ うつむり うなじ えじ おごし おはち がんくびかっぷ がんべ かっぽ かなずき かなまり かなまじ かばち かぶさがぶっしょ かぶら がまじ かまち かみ からてっぺ がんきゅー がんくたま がんくび がんくへ がんけ がんこび がんた がんぱ かんぶり がんぺー きっき こーべつ ごーらんきゅー ごつ ごーらこっぴん こっぺ こべ こびんた ・・・「日本方言辞典(小学館)」
「猫(ねこ)」の方言
あお おしゃます かいかい かな かん きょこ こぞ ぐる こま じゃべ じょこ じんたろ ちっぺ ちめ ちゃっちゃ ちゃっぺ ちゃこ ちゃべ ちゃめ ちゃんべ ちょ ちょい ちょこ ちょちょ ちょぼ にんちょ ねこのす ねこんご はち まーゆ まい まお まちじし まや まゆ まん まんまん みゃー みゃお みゃーみゃー みゃん・・・「日本方言辞典(小学館)」
同意の一単語に、上記のようなたくさんの方言があります。「頭(あたま)」「猫(ねこ)」はどこの地域の方言であったかを知るには、日本全土の方言集を作ることが先行するので大変な作業になります。「頭」は「うつむり(香川県大川郡)」、「猫」は「ねこんご(三宅島)」などが似ている。それにしても、「ねこんご」は「ねこ」の変化語かもしれないのでややこしい。同じ作業を朝鮮半島においても実行し、「고양이<koyani> 猫」なる単語がどこの地域の方言であったかわかっても、日朝語いずれにもおびただしい種類の方言があるので、「猫(ねこ)」と同音の類似語を朝鮮語から見つけることは難しいでしょう。
類似語が少ないために、日韓語は同系語ではないと言われています。しかし、角度を変えてみると、この説は「類似語彙(単語)」の量の比較に依存しているので一面的な見方であります。ところが、「語法」「語順」「擬態・擬音語」「動詞の接尾語」「単語の性質」「発想」「表現習慣」「俚諺」・・などの多面的視点から見れば「日韓語はうり二つ」です。日韓語のコミュニケイションにおいて、その類似性を決定的にするのは、「語法の一致」「通訳の容易さ」などです。この同一性は、二国間の言葉のコミュニケイションを恐ろしく容易にします。そして、日韓語の違いは「方言の差」でしかないことに気づかせます。これは、「鹿児島弁」と「東北弁」の差が「単語の違い」にあるのと同列なのです。
つまり、日韓語の違いは単語の音の違いに過ぎず、「言語構造」「言語の性格」を重視すれば、方言の差でしかないことがわかります。司馬遼太郎らとの対談集を出している著名な作家(金達寿)が、日帝時代、当時の統治者が「日韓語の違いは方言の差でしかない」と言って日本語の学習を強要したという話を述べていますが、まさに正鵠を得た話であります。この説について、何の証拠もないのに勝手なことを言うなと反駁する人がいます。しかし、この説から、当時の朝鮮半島の巷や学校で噂されていた話題が広がったのではないかと推察されます。日朝語の違いが方言の差であることは、韓国語を学習すればすぐに気づくことであって、目くじらをたてて「証拠を見せろ」などと豪語することではありません。
百済王朝の言葉と新羅王朝の言葉
全栄来(全北日報論説委員、全北道立博物館館長、韓西古代学研究所所長、文学博士)は「新羅による半島統一・百済の滅亡」後、「民族の移動と文化交流が引き起こされ、多くの百済人が倭国に亡命・移住し、日本列島に、新しい文化の移植・開花をもたらした。対岸が見えるということは、渡航者に勇気を与え、さらに、対馬・壱岐の二つの島が渡航の要衝として役立ち、朝鮮人の渡来を容易にした」と述べています。
「当時の宮廷で働く人々の出自を調べると百済人だらけである」と述べている佐々克明の言葉は、「奈良時代の文化を形成し『日本』とい国号を作ったのは百済人である」という文定昌の説と符合します。
「万葉」「記紀」を書いたのは、飛鳥地方に居住し大和朝廷にかかわって働いていた人たちであると言われています。「続日本紀」に、当時の飛鳥地方の住民の80~90%が朝鮮からの渡来人であったと書かれているそうです。従って、大和朝廷にかかわっている人たちは朝鮮語(主として百済語)を話していたことになります。万葉の歌聖「額田王」「山上憶良」「柿本人麻呂」は朝鮮人であると言われていますが、彼らが使った言葉のほとんどは現在の大和言葉に含まれています。「万葉」「記紀」の言葉が、現在の標準語として大きな存在を占めていることは、古代朝鮮語と現在の大和言葉は同じものであったことになります。
飛鳥地方に居住し朝廷につかえた知識層は、「宮廷文学(王朝文学)」の作者として言葉の文字化に貢献しました。「宮廷文学」の文字言葉は、後々の種々の文学に継承されて発展し文学語として定着しました。平安~鎌倉期、「宮廷文学」の系統をもついくつかの代表作品には、「古今和歌集」「土佐日記」「枕草子」「源氏物語」「更級日記」「方丈記」「徒然草」「平家物語」・・などがあります。これらの作品の言葉は、江戸・明治・大正の文学作品の言葉(文字)の水源となり今日に至っています。
当時の歴史事情・社会環境からすれば、古代朝鮮全土に共通語があったとは考えられません。農民を主とする少量の低層語彙からなる各地域の方言は、ハイクラスの「王朝語」とは次元を異にするものであったでしょう。「百済王朝」の言葉が大和朝廷の主たる言葉として使われ現大和言葉の水源となり、「新羅王朝」の言葉が現朝鮮母語の水源になっているとしても、新聞・ラジオもなく、交通事情も悪かった社会環境では、「新羅王朝」と「百済王朝」のコミュニケイションは通訳でもいなければスムーズにいかなかったと思われます。従って、現在の大和言葉が朝鮮母語と異なるのは、両国の言葉の成立過程に原因があります。
古代朝鮮語が日本語のルーツであるという証拠を見せろという人がいますが、この答えはすでに明らかであります。例えば、梅原猛は「芸術新潮(2009年)」の大特集「古代出雲王朝」で、「日本書紀の記録や出雲で発見された古墳・遺跡・大社の社などから判断すれば、スサノオは朝鮮半島から出雲へ来たという説が正しい。スサノオがヤマタノオロチを切った刀は韓鋤の剣であることからしても、スサノオが韓国から来た神であると考えるのが最も自然であろう。スサノオに始まる出雲王朝には朝鮮の影が強く差している。」と述べています。この説を唱える人は、梅原猛が初めてではありませんが、梅原が述べたこと自体に大きな意味があり、日本人の祖先は「天孫降臨」によって生まれ、増幅し、発展した民族ではないことを再認識させます。
さらに、梅原猛は、著書『葬られた王朝―古代出雲の謎を解く』で、「出雲王朝の創立者は韓国系と考える。その証拠に出雲王朝の遺跡から銅鐸が出てきた。銅鐸の起源は韓国の貴族が双馬馬車につけていた鈴だ。スサノオが韓国からきたとする説はますます有力になっている。新しい日韓関係を見せてくれる。韓国に注目しなければならない。古代日本にとって、韓国は文明国であったし、さまざまな文化を伝えてくれた。」と述べています。
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