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2013年1月12日 (土)

「古事記」「日本書紀」は日本の独立宣言

『白村江の戦い』の影響

 

白村江の戦い(663)』で「新羅」「」の連合軍に敗れた「百済」は、朝鮮半島から追われ倭国へ逃れた。このことについて司馬遼太郎は「百済国ごとの引っ越し」と述べている。

 

白村江の戦い』の際、倭国は延べ37,000人の兵を送り、倭国軍の船舶数800余隻は新羅連合軍の船舶数の5倍近くであったというから、倭国がいかにこの戦いで百済救援に力を入れていたかがわかる。百済が倭国の救援を求めたのは、倭国は古くから百済と親密で、実質、百済渡来人の上層階級の支配下にあったからである。そもそも、弥生時代以降、「民族の大移動」とも称すべき民族の移動(移住)が朝鮮半島から倭国へ続き、原住民とされる縄文人の子孫は「消えゆく運命(完全に消えたわけではないがアイヌの歴史に類する)」にあった。飛鳥~奈良時代に至ると倭国の人口が約600万人になり、倭国における人口の90%以上が渡来人で占められたという。そして、百済の上層階級・朝鮮渡来の豪族が大和朝廷形成の原動力になった。 

 

白村江の戦い』で、天智天皇は百済救援に約2万人近くの兵を出したと言われているが、天智の筆頭ブレイン「藤原鎌足」は百済人で、天智の母(斉明天皇)は吉備の豪族(朝鮮人)の出である。また、当時の実質天皇と言われている蘇我氏は渡来人で、聖徳太子もその妻も蘇我氏の一族である。小山修三は「近畿地方に最初の統一政府をつくったのは朝鮮渡来人である」と述べ、金容雲(日韓交流会議の韓国側代表)は「飛鳥王朝と百済王朝は親戚関係にあり、天皇の側近は百済の学者であった」と述べている。 

 

新羅に敗れ多くの百済人が倭国へ亡命した。天智天皇は上層階級の亡命者の約2000名を近江に住ませて土地を与え、3年間の食糧を無償で与えたという。特に、亡命者の高官を優遇して66名を政務次官なみに登用し、「法官大輔(法務大臣)」「学頭職(文部科学大臣)」になった人もいる。百済から来たばかりの高官「鬼室集斯」が朝廷の「学頭職」になったことは「言葉の問題がなかったことを意味している」と佐々克明は述べている。667年、天智天皇は、都を近江に移している。近江は古くから朝鮮渡来人の居住地として知られ、「須恵器(朝鮮土器)」の発祥地である。また、天智が都を近江に移した大きな理由は『白村江の戦い』での敗北後、新羅軍による侵攻(瀬戸内海経由による)を恐れたためでもあるという。

 

百済と大和」という言葉で区別すると、両者は異種の民族からなる二つの国のように思われるが、実際は、弥生時代から始まる朝鮮渡来人の移住による人口増加によって倭国の住民は形成されており、殊に7~8世紀頃 急激に増えた百済の上層階級の渡来により、倭国は文化的・政治的・経済的に大きくグレイドアップした。

 

 当時の倭国の住民の主軸は縄文時代の子孫のエリートではなく、大和朝廷を形成し倭国の主軸となった渡来人であった。

 

「日本国の誕生」

 

全栄来 (全北道立博物館館長 韓西古代学研究所所長) は著書『百済滅亡と古代日本』で、「百済の滅亡後、多くの百済人が倭国に移住し、日本に新しい文化の開花をもたらした」と述べている。佐々克明は「当時の宮廷で働く人々の出自を調べると百済人だらけである」と述べ、文定昌は「奈良時代の文化を形成し『日本』とい国号を作ったのは百済人である」と述べている。大和朝廷で働いていた人たちの居住地は、政治の中心地「飛鳥」であった。『続日本紀』 『姓氏録』によれば、飛鳥地方の住民の80%~90%が朝鮮からの渡来人であったという。

 

上田正昭(アジア史学会会長)、司馬遼太郎、金達寿らの対談集によれば、「日本書紀は百済人を主軸にして書かれ、天皇・朝廷のプロモーター藤原氏の都合がいいように整理されている」という。大化の改新(645)」を中心になって推し進めたのは「藤原鎌足(百済人)」で、天智天皇の筆頭ブレインであった。鎌足は、それまでの実質天皇であった蘇我入鹿を天智と謀略して暗殺し、藤原一族を政界のトップに安座させた。

 

藤原鎌足の子 「藤原不比等は「大宝律令(701)」の編纂の中心メンバ-となり、わが娘を文武天皇の夫人とした。文武の子が聖武天皇になるにおよんで「不比等」の宮廷内での勢力は不動のものになった。さらに、後妻との間に生まれた娘を聖武天皇の皇后にさせ、藤原氏繁栄の基盤を築いた。 梅原猛は「奈良の都の政治は不比等の独壇場であった。不比等の下に集められたのは、知謀ゆたかな、法律、歴史にくわしい朝鮮人であっただろう。日本書紀不比等を編集責任者とし、太安万侶など歴史にくわしい朝鮮人によって書かれたにちがいない。」と述べている。

 

この頃から日本の建国が本格的な進展を見せ、初めて書かれた日本の史書『日本書紀』は一種の独立宣言の意味を含有していたのである。天皇のブレイン「藤原鎌足」「藤原不比等」に始まる「藤原氏一族」の日本統率は昭和に至るまで続いたと言われている。目にこそ見えないが、「藤原氏」の勢力は今日でも存在していると語る人もいる。

 

閑 話 1

 

藤原道長(9621027)」は藤原氏の全盛時代を現出した。当時、大

納言以上の地位における藤原氏の占有率は百%であったという。下

記の「道長」の歌は、このような藤原氏の勢力を表すものとしてよく

知られている。

 

この世をば我が世とぞ思ふ望月の欠けたることの無しと思へば

 

藤原氏は、千三百年にわたり、日本の政治・宗教・文化の頂点に君

臨し、「古事記」「日本書紀」「続日本紀」「日本後紀・・その他

の史料のほとんどは藤原氏の手によって編纂されているという。驚く

べきことは、 徳川幕府崩壊直後の明治元年(1868)の内閣最高幹部:

 

左大臣藤原道隆、右大臣藤原家信、同従一位藤原実美、内大臣 藤

原実徳、内大臣正二位 藤原忠順・藤原宗弘・藤原資宗・藤原雅典・

藤原光愛・藤原胤保・・・

 

などが藤原氏一色で占められていることである。さらに唖然とすべき

史実は、藤原氏の源泉が「百済再興の夢」を成就させた渡来人であっ

たということである。 

 

 

日本建国と神話

 

 

朝鮮半島から追われて倭国へ移住した百済人は、「百済再興の夢」を倭国で成就させるために「日本」という国号を設け、日本建国の史書を作ることに尽くした。日本は日本古来の民族によって形成されたという歴史の創造に努めた。世界の歴史を俯瞰し、「神話」が歴史の巻頭に置かれているのを模して、日本歴史の巻頭に朝鮮の檀君神話」を恰好のモデルとして採用した。

 

ソウルで韓国の「檀君神話 と「日本の建国神話 を比較考察する学術会議が開催されたとき、上田正昭氏(アジア史学会会長)の論文が事前公開されたところ、「天孫が空から降りる韓国と日本の神話には類似性が多い」という上田氏の記述に注目が集まったという。日韓の神話を比較研究してきた上田氏は「日韓の神話は、天孫が山頂に降臨しているなど共通点が多く、日本は韓国の神話を継続的に受け継いできている」と指摘している。駕洛国記』による神の降臨地「亀旨<kuji>」と『記紀』による降臨地「久志」の音がそっくりであることからも、上田氏の説は信憑性を感じさせるものである。

 

閑 話 2

 

日本神話」は、八世紀初め百済人を主軸として書かれた『古事記

日本書紀』の記述がもとになっている。梅原猛は「芸術新潮(2009

)」の大特集「古代出雲王朝」で、「日本書紀の記録や出雲で発見

された古墳・遺跡・大社の社などから判断すれば、スサノオは朝鮮

半島から出雲へ来たという説が正しい。スサノオがヤマタノオロチ

を切った刀は韓鋤の剣であることからしても、スサノオが韓国から

来た神であると考えるのが最も自然であろう。スサノオに始まる出

雲王朝には朝鮮の影が強く差している。」と述べている。

 

閑 話 3

 

梅原猛は、『葬られた王朝―古代出雲の謎を解く』という著書で、

出雲王朝の創立者は韓国系と考える。その証拠に出雲王朝の遺跡か

ら銅鐸が出てきた。銅鐸の起源は韓国の貴族が双馬馬車につけてい

た鈴だ。スサノオが韓国から来たとする説はますます有力になって

いる。古代日本にとって、韓国は文明国であったし、さまざまな文

化を伝えてくれた。」と述べている。

 

現実問題として「天から人が降りて来た」というのは想像上の話である。人間が誕生した源泉を追跡して行けば、つまるところ不可解である。進化論なるものがあり、人間はアミノ酸から生まれ、魚、類人猿などと進化して現在に至ったとしても、恐竜時代の巨大生物はなぜ絶滅したのか、シーラカンスという生きた化石が今でも存続しているのは何故か。所詮、人間の誕生と存続の歴史は闇に包まれている。すなはち、人間がなぜこの地球上に住むようになったのかは不可解であり、人間の能力の限界を超えている。進化論なるものに従うのが正しいのか、卵からヒナが生まれるように、最初からなるべくして生まれた種ではなかったか。わからないものは、結局「」の力にたどりついて、「」が創造したとすればそれ以上に追跡する道も方法もない。従って、日本の建国史の源流を「」であるとすれば、日本人の祖先は簡単に決定される。

 

 閑 話 3

 

スサノオ」が現日本人の父であるかのように、出雲古代博のメイ

ン会場は「スサノオ」の活躍を描く映画と神楽がすべてという様子

であった。出雲の1300年の歴史というテーマ博だから、この古代

博は、奈良時代以後の歴史を民衆に教えるために企画されていなけ

ればならないのに、そのような歴史を語る展示室はなく、常設の

「古代出雲歴史博物館」に入館しなければ、何ら見るに値するもの

はなかった。「スサノオ」のヤマタノオロチ退治がいかにも古代出

雲を象徴するかのように強調されていたけれども、「スサノオ」の

オロチ退治は日本人誕生の頃、すなはち、人類発祥の頃の伝説(

)であるとするならば、「日本神話」は旧約聖書の人間生誕の時

代と時を同じくしてもおかしくない。

 

スサノオ」の存在を、出雲1300年史博のトップに誇大に掲げ、

AD6~7世紀以後の1300年の歴史がどのように変遷してきたか

が皆目欠落しているならば、1300年前に書かれた『古事記』の巻

頭部分の神話(紀元前の人類生誕の物語)を強調し過ぎていることに

ならないだろうか。キリスト教国で、仮に建国2000年歴史博を実

施するときに、「旧約聖書」の巻頭の天地創造のくだりを誇張して

描くだけでは、西暦元年以後 2000年間の歴史博にならないだろう。

1300年前に「スサノオ」が出雲の地に天から降臨したかのような

誤解を、歴史博入場者のほとんどを占める小中学生に植えつけるか

もしれない。

 

スサノオ」はAD4世紀ごろ、朝鮮南部から渡来したタタラ流し集団のリーダーであったという説をときどき見たり聞いたりする。「スサノオ」がタタラ流しで成功して製作した「草薙の剣」の伝説が敷衍され、奈良時代に書かれた『古事記<712>』『日本書紀<720>』の巻頭の神話の部分に採用され、遠い昔(紀元前)の日本の創生時代の出来事であったかのように思われている。『日本書紀』に書かれた神話が、AD4世紀頃の話を敷衍したものであるとすれば、あくまで想像上の作り話に過ぎない。 

 

中国地方の山々は砂鉄が豊富で、4世紀頃 朝鮮人がタタラ流しのために渡来したことについて、司馬遼太郎はシリーズ「街道を行く」で、「朝鮮南部から渡来して三次でたたら流しを続けた朝鮮人のために、三次の山々が丸く削られている」と述べている。『日本書紀』によれば、「スサノオ」は斐伊川の上流の「鳥上」に新羅から来たと書かれているそうだから、「スサノオ」が天から降りて来たというストーリーは、伝説に基づく創作以外の何ものでもないだろう。そもそも、天から人が降りてくるという話は奇想天外な作り話である。「スサノオ」のオロチ退治を、出雲1300年の歴史博のトップテーマとして祭りあげ、博物館の中の常設展示物以外に企画されたものがないのは、奈良時代以後の1300年について開陳・教化する博覧会とはほど遠いものに終わっているのではないだろうか。

 

石田英一郎は『日本文化論』で「日本文化の源流は弥生時代である。すなはち、日本人の祖先は弥生時代から始まる。」と述べ、古代アジアの研究者 笠野剛は「弥生文化は朝鮮半島から波及してきた新しい文化である。その文化の特徴は弥生式土器・鉄器・銅器・稲作・機織などがセットになったものである。日本文化の基礎はここから始まった。」と述べ、「悠久の昔から存続している縄文時代の原住民・朝鮮渡来人」と「弥生時代の朝鮮渡来人」を区別している。両時代の間には、区別するだけの明白な文化異変が見られるために、縄文を弥生という時代名に変えたのである。

 

 上記の歴史展開から、『記紀』は何のために書かれたかが自ずとわかる。母国を追われた百済人が「母国再興の夢」を倭国で実現させるために、文化国家としての国の建設に尽くした軌跡が『記紀』『神社仏閣』『万葉集』などの「史籍(史跡)」に示されている。アメリカは主として欧州からの渡来人によって建国され、「独立宣言」によってアメリカ国としての出発をした。ことほどさように、奈良時代 「百済再興」を夢見て作られた『日本書紀』は、アメリカの「独立宣言」に類するものであると言えるだろう。

 

 

 

 

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