飛鳥の朝廷の言葉
飛鳥~平安時代頃、日本には各地域の方言の外に「宮廷語」があった。「宮廷語」も日本全体から見れば、宮廷という限られた区域の方言である。『万葉集』『記紀』はこの「宮廷語」によって書かれ、作者は漢字を自在にあやつることができる宮廷の知識層、朝廷にかかわって働くエリートであった。
大和朝廷で働いていた人たちの生活の本拠地は「飛鳥」で、『続日本紀』『姓氏録』によれば、飛鳥地方の住民の80~90%は朝鮮人であったという。飛鳥地方を中心に活躍していた聖徳太子は蘇我氏(朝鮮人―当時の実質天皇)の一族で、妻も蘇我氏の人である。日本で最初に建てられた寺院「飛鳥寺」は蘇我氏の氏寺で創立者は蘇我馬子である。明日香村にある日本最大級の横穴式古墳「石舞台古墳」の埋葬者は蘇我馬子ではないかとされている。有名な「高松塚古墳」は明日香村にあり、中に描かれた彩色壁画の婦人像の着衣は古代朝鮮人の服装そのままである。画家の平山郁夫によれば、「高松塚古墳」は高句麗のものにそっくりで、描かれた古墳壁画は三流の画家が描いたものであろう、明日香村の古墳は高句麗のミニチュア版であると述べている。
なぜ「飛鳥地方で使われていた言葉は朝鮮語(主に百済語)であった」と言われているか、下記に列挙した研究者の言葉を見れば一層その信憑性に気づくのではないだろうか。
○「飛鳥における政治の実権は蘇我氏(朝鮮人)の掌中にあった。このころ
の天皇とは蘇我氏のことである。」 (亀井勝一郎他)
○「飛鳥は日本人の心の故郷と言っているが、そこに住んでいたのは朝鮮
人であった。」 (井上光貞 山本健吉)
○「飛鳥は朝鮮文化をぬきには語れない。」 (司馬遼太郎 上田正昭)
○「百済から来たばかりの高官 鬼室集斯 が学頭職(文部科学大臣)になっ
たということは、言葉の問題がなかったことを意味している。」
(佐々克明)
○「近畿地方に最初の統一政府をつくったのは渡来人である。」
(小山修三)
○ 「飛鳥王朝と百済王朝は親戚関係にあり、天皇の側近は百済の学者であ
った。宮中では百済語が使われていた。古事記・日本書紀は百済の学
者により吏読表記(百済の万葉仮名)で書かれている。
(金容雲 日韓文化交流会議の韓国側代表)
○ 日本書紀は百済人を主軸にして書かれ、天皇・藤原氏(百済人)の都合
がいいように整理されている。 (上田正昭らの対談集)
○ 飛鳥の朝廷を調べると、いたるところに百済人だらけである。常識的
に言って、百済語が公用語だったとしか考えられない。(佐々克明)
○ 韓半島の言葉の上に、飛鳥、奈良時代の日本語は形成されている。
(李寧熙 国会議員 韓国女流文学人会会長を歴任)
○ 古代朝鮮語と日本語は同じである。
『大日本地名辞書』の第一巻の「地名総説」
○ 天智天皇のサポーター藤原鎌足の名は朝鮮語の漢字表記である。
(朴炳植)
○ 天智の母と妻、聖徳大使の妻、桓武の母、当時の朝廷のサポーター
蘇我氏、秦氏、漢氏、藤原氏などは朝鮮人。 (権叉根・朴炳植)
○ 征夷大将軍 坂上田村麻呂、平安遷都の功労者 和気清麻呂、東大寺
大仏の造立の重鎮国中公麻呂、大化の改新の重鎮安部内麻呂は朝鮮人。
(金達寿・金思燁)
○ 人麻呂を寵愛した持統天皇の母は朝鮮人。 (金思燁)
○ 出雲風土記の編纂がおくれ、中央政府から派遣された金太理は百済人。
(国弘三恵・金達寿)
○ 百済と日本は一体であり血縁関係にあった。(佐々克明・洪思俊)
○ 平安時代までの日本文化は外国のもの。日本の王朝文化は百済と同じ。
(司馬遼太郎・丸谷才一 他)
○ 朝鮮半島からのエリート集団の集中的移住が宮廷文学を開花させた。
(国弘三恵)
○『記紀』は吏読表記(万葉仮名に相当)で書かれている。
(李寧熙)
○ 遣唐使は朝鮮でおこなわれており、渡来人によって形成された政府が
同じことを続行した。遣唐使にえらばれたのは渡来系のインテリ層で
あった。遣唐使にえらばれた山上憶良、最澄は朝鮮人。 (金達寿)
○ 唐への留学僧は百済人であった。当時の僧侶の言葉は百済語であった。
(金達寿 司馬遼太郎 上田正昭らとの対談集)
○ 大化の改新は、藤原鎌足、安部内麻呂、金春秋、高向玄理などの渡来
人によっておこなわれた。 (文定昌)
○ 日本国の誕生にもっとも力を発揮したのは、白村江の戦いの敗北で渡
来した百済人。『日本』という国号をつくったのも百済人。(文定昌)
○ 宮中の 御神楽 韓神の祭儀 高麗楽 高麗舞 雅楽 歌会はじめは韓半島
の王室でおこなわれていたもの。 (上田正昭・金達寿)
司馬遼太郎は「平安時代までの日本の文化は外国のもの、日本らしくなったのは鎌倉時代になってから」と述べている。「白村江の戦い」で新羅に敗れた百済人は国を追われ、王族・高官などのエリートがたくさん倭国へ亡命した。故国を失い百済再興の夢を倭国に託した百済人は、奈良時代に「日本」という国号を作り、倭国の文化を根底から変える著しい日本文化の礎石を「飛鳥」に置いたのである。
従って、「百済の王朝語」が「飛鳥王朝の宮廷語」になり、雨後の竹の子のように生まれた「宮廷文学」の言葉は、それ以後の多くの知識層の文学作品の言葉として使われ、結果的に江戸・明治・大正・昭和の学問・文学などの用語として日本全国に広がって行った。印刷術の発達と、学校教育の進展、新聞・雑誌の普及、ラジオなどによる言葉の大衆への速いインプットにより、日本の共通語(標準語)がめざましいスピードで広まった。このような変化が顕著になったのは、おそらくここ150年足らずの短い期間であっただろう。現代の恐るべき高い文明に染まっている現代人は、錯覚に陥り「日本語はどこから来たのかわからない不思議な言葉だ」などと狼狽しているのである。
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